第二幕『射手の乙女』


 カルカ運河で勝利を収めたヴィノは勢いをそのままにコルトバを攻略し、人間の交易の中心であるマルクスを制圧するとそれぞれの街や城同士が互いに連絡出来ぬように各街道を封鎖した。
 予想だにしなかった竜族の襲撃に浮足立つ人間の隙を突き、ヴィノはイア・バール・リシュメイアの地を制圧し戦線を南方へと動かした。
 そして今、南方の要所カルタナを陥落せんとする竜族がその瞬間を今か今かと待ち構えていた――。


 「ったく、敵陣を前にして休息とは道士様の考える事はわかんねぇな」
 「そう言うな。我等の目的は人間の殲滅ではなく、同族達が逃げ遂(おお)せるまでの時間稼ぎなのだからな」
 つまらなそうに愚痴るトゥーガにヴィノは苦笑を向ける。
 カルカ運河での勝利からここまで強行軍で来た。急襲の名に相応しい電撃戦を繰り広げた甲斐あって大した被害を出さずには来たが、流石に兵士達にも疲れが出始めた。
 そこでヴィノはカルタナに程近い山林の奥に拠点を構え、暫しの休息を取る事にした。幸い、今は夜。新月であるが故の深い闇が辺りを覆い、彼等竜族の姿をその深遠に隠してくれる。
 「さて、我は少しばかり陣を離れるがその間の指揮は御前に取らせる。くれぐれも――」
 「くれぐれも人間との交戦は避け、民間人に対しての攻撃行動を取るな……だろ?」
 トゥーガは苦笑しながら言葉を継ぐ。長年の付き合いであるだけに、ヴィノの考え等お見通しのようだ。
 「つーかお前はどこに行くんだよ?」
 「なに……少々確認した事が、な。では頼んだ」
 意味ありげに笑みを浮かべるヴィノに早く行ってこいと手を振り、拠点内の雑用をしていた兵士の一人を捕まえ指示を飛ばす。
 「だからその木材は向こうに置いておけって言っただろうよ?釣鐘は後で別の奴が持ってくるから、それまで角の方に転がしとけよー」
 「トゥーガさん、こっちの食料はどこに運んでおけばいいんですかぁ?」
 「ああ、それは奥の部屋に……ってオイ、つまみ食いするんじゃねぇぞ」
 てきぱきと指示を飛ばしながら、トゥーガは先程感じた違和感について考えていた。
 彼の知っているヴィノはこの程度の事で『頼んだ』等と言うような者ではない。それも労いを含んだ言い方ではなく、敢えて面倒事を押し付けた、という意味を滲ませる口調で。
 (――って事はあいつ、何か隠してやがるな)
 その時、不意に嗅ぎ慣れた臭いが鼻の奥を擽る。
 戦場を経験した者だけが感じ取れる嗅ぎ慣れた臭い。それは夜風と共に音も無く忍び寄り――
 「敵襲だっ!」
 考えるより速く、彼は動き出した。
 魔力を開放すると同時に声を上げ、陣の後方へ一気に駆け出す。彼の強大な魔力が大気を震わせ、襲撃者が普通の人間ではないと兵に悟らせる。
 既に戦闘は始まっているらしく、闇を切り裂くように激しい剣戟が鳴り響いている。
 駆け抜ける先、暗闇に光る双眸を捉えると彼は再び声を上げる。
 「相手は魔族だ!気を抜くんじゃねぇぞ!」
 鉄兜と青銅の鎧に身を包み、銀の剣を携えた魔族達が文字通り海のように連なり坂を駆け下りて来ていた。数はざっと四百。
 「へっ、上等!来いよ、片っぱしからぶん殴ってやらぁ!」
 一人の魔族に照準を定めると、右の拳に魔力を集中させる。魔族の兵士が振り向くより速く、彼の拳が胸を打ち貫く。
 兵士の鎧に当たると同時、焔が爆ぜる。
 衝撃で吹き飛んだ兵士は穿たれた鎧から血飛沫を撒き散らし、樹木の間に消えていく。
 彼は右手を翳すと、満足気に笑みを浮かべる。
 「思い付きでやってみたが上出来じゃねぇか。これなら魔術向きじゃねぇ俺でも使いこなせそうだぜ」
 魔族の兵士数人がトゥーガを取り囲む。先の攻撃で彼が並の竜族ではないと感じたのだろう。
 銀の剣を片手にじりじりと距離を詰める兵士達にニヤリと笑みを向けると、一瞬の虚を突き走り出す。それも敵陣の真っ只中へと、だ。
 「オラオラァッ!死にてぇ奴から掛かってこいや!」
 目の前の相手が剣を振り被るより先に拳を当てる。
 十分に重みの乗った拳は相手をくの字に折り曲げ、そのままの体勢で吹き飛ばす。
 その反動で体を左に捻る。避けなければ彼の胸に深々と突き刺さったであろう剣が空しく空を切り、代わりに前のめりになった兵の背に肘鉄が落ちる。
 ゴキッと骨の折れる感触が腕に響く。間髪入れず彼は上体を後ろに倒した。
 彼の首があった位置を銀の剣が通り抜けると同時、勢いよく捻りを加え右足を蹴り上げる。
 側頭部への回し蹴り。死角から飛んできたそれを避けられる筈もなく、鈍い音を残して兵の姿は闇に消えてゆく。
 「さぁ、どうした?誰か俺を止めてみろよ!」
 咆え猛るトゥーガはがしっと拳を打ち鳴らす。
 その音に紛れて微かに風が揺れる。
 「おぉう?」
 横から突き飛ばされ、二、三歩よろめく。
 風を揺らしたものが飛んで行く。自分を突き飛ばした者に視線を向けると、蒼い鱗を持った竜族の少年が立っていた。
 トゥーガやヴィノと違い、完全に人化の術を解いた竜本来の姿。右手には所持者の魔力を高める古びた杖が握られており、彼が術師である事が一目で解る。
 「後方不注意ですよ、トゥーガさん。どうやら敵さんにも腕の立つ奴がいるらしいですねぇ」
 「後ろはお前らに任せたんだよ。にしても……今のは弓兵か?」
 「少なくても弓じゃないみたいです。弓ならあんな音立てて飛ばないですからぁ」
 気の抜けたような口調ではあるが、少年の眼はそれが飛んできた方向に向けられており絶えず注意を巡らしている。
 「相変わらず耳のいい奴だなお前。まぁ、取り敢えずありがとよ」
 「継の矢は来ないみたいですよぉ。弓じゃないのでこの言い方でいいか疑問ではありますが……今のうちに暴れまわった方がいいですね」
 「おっしゃ、気を取り直して行くか」
 「じゃあ僕は他の所に行ってきます。これでも案外暇じゃないんですけどねぇ……」
 苦笑を漏らしながら少年は剣戟音の激しい方へと歩いて行った。その後ろ姿を見送りながら、トゥーガは少年が漏らした言葉に僅かばかりの悔しさを感じた。
 都合良く少年が此処に現れた理由。
 術師である彼は治癒術を専門に会得している為、本来なら陣の中央付近で怪我の手当てを行っている。
 にも拘らず先程のような事をわざわざしに来たという事は、
 「あの野郎……こうなる事が解ってやがったな」
 恐らく陣を離れる前、ヴィノが少年に言伝たのであろう。少年の類稀なる俊敏さと聴力を見込んで。
 そうした理由もトゥーガの保身ではなく、あの攻撃を放った者を探す為である可能性が高い。
 「ったくよぉ……これだからあいつと居ると退屈しねぇぜ」
 半ば諦めたように呟くと、彼は再び拳を打ち鳴らす。
 「なら精々囮役として暴れまわってやらぁ!」
 地を蹴り、敵の集団に突っ込んでいく。
 行く手を阻もうとした兵士数人を弾き飛ばし、手当たり次第に焔を上げる。
 憂さ晴らしの意味もあるのか、先程よりもより苛烈に戦場を駆け抜ける姿はまさしく竜そのもの。
 愚直ながらも豪胆な戦いぶりに恐れをなしたか、或いはただ単に手が付けられない為か、兵士が十人掛りであってもトゥーガの勢いは止まらない。
 動きの遅い者は言うまでもなく、剣で拳を受けようとする兵は剣ごと粉砕する。
 「せぁぁぁぁっ!」
 兵の一人が果敢にも彼に斬りかかる。
 彼は振り向き様に撃ち抜こうとしていた拳を止め、ニヤリと笑い上段に構え直した腕で剣を受ける。刹那、爆音と共に兵の体は灼熱の業火に焼かれながら崩れ落ちた。
 「成程、衝撃に合わせて魔力を打ち抜きゃ反撃にも使えるってか」
 腕に集中させた魔力を開放し、トゥーガは焔の闘気を身に纏う。
 業火に照らされた魔族達の顔は、どれも驚愕と恐怖に染まっている。彼等魔族の中でも、これ程の使い手はごく僅かだ。
 「こ、こいつバケモノか……!」
 誰かがそう言ったその時、山頂――魔族達がやってきた方向から甲高い笛の音が響き渡った。
 それを合図に兵士達は皆山頂へと退き上げていく。
 余りにあっさりとした、しかし足並みは整っていない退却を暫く眺めていたが、
 「んだぁ?もう撤退かよ」
 詰まらなそうに鼻を鳴らすトゥーガに背後から声が掛かる。
 「まぁまぁ、今の部隊は様子見みたいです。それにあまり長期戦になっても不利ですよぉ?」
 振り返ると少年が微笑みながら立っていた。人化の術を使っている為、姿は眼鏡を掛けた優しそうな人間の少年にしか見えない。
 「ん?また帰ってきたのかよ」
 「トゥーガさんみたいな闘士と違って僕達術師は戦いの後が忙しいですからねぇ」
 そう言いながら少年は傷付いた魔族の兵の元へ歩み寄る。
 だが兵士は竜族というのが解っているのか、怯えた様子で声を荒げる。
 「や、やめろぉ!寄るな、バケモノぉ!」
 「あぁほらほら、動かないでくださぁい。動いたら傷口が開いちゃいますよ?」
 少年は杖を兵士の傷口に翳すと、小さく祈りの呪文を唱えた。
 兵士は恐怖で目を瞑っていたが、予想していた痛みがいつまでもやって来ない事を疑問に思い、うっすらと目を開ける。
 「あ……」
 暖かな光が杖の先から溢れ出ており、少しずつではあるが腕や足の傷口が塞がっていく。
 やがて光は小さくなっていき、光が消えた時には傷は完全に癒えていた。
 「ふぅ。これで大丈夫ですけど、あんまり無理しちゃ駄目ですからね?」
 「あ、ああ……」
 敵同士であった筈の竜族に傷の手当てをされ、いまいち理解が追い付かない様子の兵士に、少年は優しく微笑みかける。
 「おじさん、民兵ですねぇ。急に戦なんかに駆り出されて大変じゃありませんでしたか?」
 「ああ……そりゃあ、まぁ……。って、なんで私が民兵だと判ったんだ?」
 兵士の問いに、少年は困ったような笑いを浮かべる。
 「ええと……なんて言えばいいのか……」
 「生きてるからだよ、オッサン」
 言い淀んでいた少年の代わりにトゥーガが答える。
 トゥーガを見て兵士は身を竦ませたが、彼はやれやれと肩を竦ませてみせる。
 「そんなに怯えんなって。取って食う訳じゃねえ」
 冗談交じりに言うが、ふっとその顔が真面目なものに変わる。
 「あんたら魔族の住む国は未だに身分制度の影響が強いんだろ?何年か前に身分制度は廃止されたが、今でも貴族の連中に平民は逆らえずにいる。だから戦なんぞに引っ張り出されたんだろ?」
 沈黙を肯定と受け取って、更に話を続ける。
 「今回のは貴族の連中が人族と取引でもして同盟でも組んだんだろうよ。とはいえ、初戦で兵力は失いたくない。だから民兵を引き連れて戦に臨んだ。活躍した奴は体の良い駒として、逃げ出すようならその場で切り捨てるつもりでいた。だからあんたら民兵の近くに軍人がいたんだ。まぁ、寄せ集めの軍なんざそういう頭を潰せば脆いからな。他の奴はまぁ殴っておきゃ大人しくなるだろ」
 「じゃ、じゃあ他の人達も……?」
 その問いに答えるように、民兵達が姿を現した。顔見知りも居るようで、兵士は安堵の息を吐いた。
 少年はその場にいる兵士達に笑い掛ける。
 「軍人さん達はほとんどみんなでやっつけました。後は皆さんの国に帰っても大丈夫ですよぉ。家で皆さんの帰りを待っている人もいるだろうから、早く帰って元気な顔を見せてあげてください!」
 少年の言葉に喜びの声を上げる兵士達。
 「一応はめでたし、めでたし。ですねぇ」
 「ん?……ああ」
 生返事を返しつつ、トゥーガは宙を見ていた。
 不意に脳裏に浮かんだ少女。彼女も奴の帰りを指折り数えて待っているのだろうか。
 頭の中で彼女が微笑んだ気がして、視線を落とした。
 子供の頃に交わした、遠い約束。
 それを、彼女は今でも覚えているだろうか。
 少し感傷的になっていたのかも知れない。自分らしくもない、とトゥーガは拳を掴む。
 そして、ふと気付いた。
 「ところでヴィノはどこ行った?」


 走っていた。
 山林の中をただひたすら駆ける。
 いや、駆けるというより何かから逃げている、と言った方が正しいかもしれない。
 自慢の獲物を肩に掛け、一秒でも早くその場から離れようと木々の間を駆け抜ける。
 (一体何故?私の位置は見えなかった筈……)
 何度繰り返したか解らない問いを自分に向けながら、一気に山肌を駆け下りる。途中、下衣の端が枝に引っかかり裂けてしまったが、今はそんな事を気に掛けている暇(いとま)はない。
 機は完璧だった。自分自身間違いなく獲ったと思ったが、ここでも予想外の出来事が起きた。
 別の竜が標的を突き飛ばした御蔭で弾は命中しなかったのだ。
 (一体何故……!)
 何度目かの問い掛けをした時、不意に震えているような高い澄んだ音が響いた。
 「雹鋼が……鳴いている?」
 音。
 欠けていた情報の断片が私の頭の中でかちりと嵌った。
 標的を突き飛ばしたあの竜は音を聴いたのだ。信じられないが風が鳴る音を聴いてあの竜は私の攻撃を知り、そして標的を守ったのだ。
 ぎり、と歯噛みをし己の失態を悔いる。
 あの炎竜ではなく、やはりあの竜を狙えば良かった。あの竜が現れるまで身を潜めておけば――、
 思考はそこで中断された。
 本能が敵の襲来を知らせていた。予想よりも追いつかれるのが早かったが、ここで返り討ちにする。
 長銃を構え、銃口を新たな標的が現れるであろう木々の間へと向ける。
 一瞬の静寂。
 「っ!」
 現れた者の姿を見た時、私は引き金を引く事を忘れていた。
 滑らかな銀髪、切れ長の紅き双眸、端正な顔立ち。見る者を虜にしてしまうような蠱惑的な雰囲気。
 「やはり御前か。しかし引き金を引かないというのはどういう事だ?勇ましき狩人よ」
 美しくどこまでも透明な声。私はその声に聞き惚れていた。
 「……どうした?呆けた顔をして」
 彼の顔が目前まで迫った時、漸く私の頭は回り始めたようだ。
 「なっ、あ……っ!」
 どうやら舌は回ってくれなかったらしい。思いっきり私は舌を噛み、弾みで愛銃を落としてしまった。
 余りの痛さに口元に手をやる。小刻みに肩がぷるぷると震えた。
 そんな私を見て、彼は笑い出した。
 「くくく……今まで我と出会った人間で御前のような反応をした奴は見た事が無い。竜族を目の前にすれば逃げ惑うか、それとも果敢に向かって来るか、だというのに」
 それはもっともだ。
 でも私はどちらも出来ないまま、舌の痛みが引くまでずっと彼を見ていた。
 痛みが引いたのを見計らって、彼が尋ねる。
 「無垢なる少女よ、名は何と言う?」
 少女、と言うものだからてっきり私以外に誰かいるのかと思い辺りを見回してみるが、やはり誰もいない。
 この長身だから少女と呼ばれなくなって久しいが、永い時を生きている竜族からすれば私も少女になるのだろう。
 そう勝手に解釈して答える。
 「……クゥガ」
 別に敵意があって溜めた訳じゃない。単に人付き合いが苦手だから、こういう話し方なだけ。
 「クゥガ、か。いい名前だ」
 何故だろう。彼に名前を呼ばれるとくすぐったい。
 「我はヴィノ。ヴィノ・ユーノクラインだ」
 「ヴィノ……?」
 口の中で何度か呟いてみる。……うん、覚えた。
 取り敢えず手近な切り株に腰掛ける。勿論、愛銃も一緒だ。彼の事を警戒している訳ではなく、傍にないと落ち着かないのだ。
 彼はその事をちゃんと理解してくれたようだ。
 「その銃によほど愛着があるらしいな」
 「ん」
 彼は私の前でしゃがみ込むと、私の左足に手を翳す。先程木の枝に引っ掛けて破けてしまったところだ。見ると、うっすらと血が滲んでいる。
 何をするのだろう。疑問に思った瞬間、彼の手が淡く光り始めた。
 癒しの光。
 魔術を会得する者が最初に覚える術だ。人間の中にも魔術を使う者はいるが、こんなに暖かな光を生み出す術師は今まで見た事がない。
 光は直ぐに収まり、傷も綺麗に消えていた。
 有難うと言うと彼は優しく笑い、私の隣に腰掛けた。
 いつの間にか彼に対する警戒心は無くなっていた。敵同士だというのに、私も彼も戦う意思は持っていなかった。
 「何故敵の私にこんな事を……?」
 私の問いに彼は呆気に取られたような顔をした。そんなに私の言った事が意外だったのだろうか。
 「敵、か。では逆に問おうクゥガ。御前にとっての敵とは何だ?目の前に立ち塞がる者か、それとも全ての竜族か、或いは私怨を抱く仇敵か」
 「え……?」
 「我には敵等存在しない。便宜上そう呼んでいるだけで、我はいずれの者も敵として認識した事等唯の一度も無い。必要があれば排除し、興味が湧けば近付き、無価値と判断したなら捨て置く。ただそれだけの事だ」
 どういう事だろう。彼は敵もいないのに戦っているというのだろうか。
 理解出来ていないというのが伝わったのだろう、彼は別の問いを向けた。
 「クゥガ、御前は何故我に銃口を向けない?」
 「……向ける理由が無いから」
 「ならば、我が御前に刃を向けない理由も自ずと見えてくるのではないか?」
 そういう事か、と私は理解した。考えるまでもない、単純な答えだった。
 その後私は彼に彼が戦っている理由を尋ねてみた。全ての竜族を救う為に陽動として動いている、と聞いて私は彼を凄いと思い、同時に自分の戦っている理由と比べて少し恥ずかしく感じた。
 私の心を見抜いたかのように、彼は問う。
 「人にはそれぞれの戦う理由がある。それは他人と比べられるものではない。御前の戦う理由が何であれ、それを恥じる事は無い」
 彼の瞳が私の理由を聞かせて欲しいと言っているように思えて、私は訥々と話し始めた。
 幼い頃に両親を殺された事。両親を殺したのが竜族だった事。そしてその竜族が銀髪であった事。
 「……銀髪の竜族はそうそういないから、カルカ運河でヴィノを見た時に、遂に見付けたと思った」
 彼は驚くでもなく、静かに話の先を待っている。
 その様子から彼が両親の仇では無いと確信が持てた。
 「生前、私の父は鍛冶屋を営んでいた。この銃は父が残した唯一の形見だから」
 「その銃で仇を討とう、と」
 「ん」
 頷いた私の頭にぽん、と手が置かれる。
 「……くすぐったい」
 それには答えず、彼は呟く様に言った。
 「銀の髪の竜、か」
 その声は少し憂いを帯びていて、私は彼が何かを知っているのでは、と思った。
 不意に頭にあった温かさが消えた。彼は立ち上がり、術衣の端を払う。
 「さて、長居をしたようだ。早く陣に戻らねば奴に何を言われるか解ったものではない」
 「行くの?」
 自分でも知らないうちに声が出た。もう少し彼と話していたい、そう思っていた所為かもしれない。
 彼は私の方に振り向くと、優しく微笑んだ。
 「共に戦場を渡る事は出来ずとも、何度でも我等は巡り合うだろう。その身を戦場に置く限りは、な」
 それは一時の別れを告げるものだったけど、また会おうと彼が言ってくれて嬉しかった。
 「次の戦場が何処になるかは判らぬが、暇になれば会いに来よう。御前と居ると退屈せずに済みそうだ」
 言い終わった時、彼の姿は闇に消えていた。
 彼が居なくなって暫くしても、私はその場を動かなかった。
 なんだろう。さっきから心臓の音が煩いくらいに響いてくる。すぅと息を吸い込むとひんやりとした空気が肺の中に広がる。
 「ヴィノ……」
 呟くと顔が熱くなる。慌てて顔をこすったりしてみるが、火照りは治まるどころか更に熱を増してゆく。
 「んー、これは間違いなく惚れたねぇ」
 「わ、わっ……!」
 背後から聞こえた声に驚き、振り向こうとしたところで体勢を崩し、切り株から滑り落ちる。
 「いやいや、まさかクーちゃんが彼に嵌るとは太陽神も思わなかったのさ」
 ニヤニヤと音が聞こえてこそうないやらしい声に、私は驚きとちょっとの怒りを込めて顔を上げた。
 「白姫(びゃっき)……!」
 「ちっちっち、そんな余所余所しいのじゃなくもっと親しみを込めて呼んで欲しいのさね。ミアちゃん、って」
 睨みつけた先、神官の着る術衣に身を纏った女性がニヤニヤと笑っている。茶色の髪と透き通った深い青の瞳が印象的だ。
 私よりも背は小さいが、年は私より上だ。
 初めて彼女を見た時は子供だと思ったが、彼女もそれを多少は気にしているらしい。
 ミアは彼が消えた辺りを見ながら熱い溜息と共に呟いた。
 「雨の日も風の日もただひたすら銃を片手に山を歩き回っていた男っ気なんか影も形も無いようなクーちゃんに、遂に、遂に春がやってきたのねっ……!お姉さん嬉しいよっ!」
 ひどい言われようだ。
 「余りに男の子に興味無いみたいだから私てっきりクーちゃんって女の子が好きなのかもとか思ったりもしたのさ」
 ミアはそこで言葉を区切ると、次の瞬間力強く拳を天高く突き上げて大声で言った。
 「しかぁぁあっし!クーちゃんは今日という日に遂に狩人の仮面を脱ぎ棄て、恋する乙女へと生まれ変わったのさねっ!」
 もう何を言っても無駄に違いない。
 そう思った私は立ち上がり陣へと向けて足を進めようとした。が、一歩踏み出したところでミアに呼び止められる。
 「クーちゃん、私達が行くのはそっちじゃないさね」
 「え?」
 「なんでも魔族達が竜族を挟撃する為に向かってるのを竜族が察知したみたいで、もう向こうさんは移動を始めてるさ。多分ガザ平原を越えた辺りで戦闘になるから私達人間も早いとこ動こうってさっき決まったのさ」
 ミアは森の反対側を指差す。山頂付近では松明の明かりがちらちらと揺れており、魔族達が必死に退却を始めている。そしてその下、中腹の開けた場所には、
 「いない……?」
 先程まで居た筈の竜族の姿が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。いくら寡兵といえども五百を超える軍が影も形も無いというのは腑に落ちない。
 予備の遠視鏡を懐から取り出し辺りを見渡す。
 山林から視界を外した時、微かに動く影を見付けた。
 「もうカルタナを離れた……!」
 「多分ココに攻めて来てたのは精鋭部隊さね。残りはリシュメイア辺りに駐屯させてこっちの撤退を支援させるつもりだったのさ」
 彼はカルタナに魔族の一軍が待機していた事も、新たな援軍が竜族を挟撃するつもりだった事も、全て承知の上だったとでもいうのだろうか。
 「すごい……」
 思わず感嘆の声が漏れた。
 彼の叡智は人間の考えが及ぶものではない。私達の遥か上を、彼は歩いているのだ。
 「なに?惚れ直しちゃった?」
 知らずに緩んでいた口元を引き締め、反論しようとミアを睨み付ける。
 「反論する前にクーちゃん、もう一回彼の事思い出してみるのさ」
 「ん」
 言われた通りに彼の姿を思い浮かべる。
 呆れを隠す事無くミアは溜息を吐いた。
 「その緩みきった顔をどうにかしてから文句言うのさね」
 若干の恥ずかしさを感じつつ私は問う。
 「白姫、彼の事を知ってるの?」
 「知ってるも何も、竜族の中でも取り分け有名さね。銀髪紅眼の道士でその魔力は比肩する者無し、って謳われた世界最強の竜なのさ」
 ミアは訳あり顔で私に言った。
 「まぁ彼の事について聞きたいならフォウか(しぎ)に尋ねるといいのさ。あの二人は個人的に彼と繋がりがあるらしいからね」
 「それにしても白姫」
 「ん?」
 クゥガは努めて無表情に問い掛けた。
 「いつからいたの?」
 「……スタコラサッサだぜぃ」
 身の危険を感じたのか、ミアは風よりも早く林の中を駆け抜けていった。




   終幕――カルタナ連合軍拠点


 作戦会議室にある円卓の前。小太りで初老の男――ウェルドと呼ばれた将が、苦渋を滲ませた面持ちで立っている。
 その正面には少女が一人。
 全身を漆黒の術衣に包み深く頭巾を被っている為顔は見えない。
 簡素ながら他の物よりやや豪華に作られた椅子に腰掛け、詰まらなさ気に組んだ足をぶらぶらとさせている。
 「……これまでの戦いで占領された地域は十を超え死傷者も数知れず、ね。ただ突っ込むのが東方の戦なのかしら?」
 声は幼い。
 まだ年端の行かぬ少女から発せられる言葉とは思えぬほど、その内容は侮蔑と呆れに満ちている。
 「小娘風情が、知った口を叩くでないわ!大体何なのだ貴様は?」
 いきり立つウェルドをフンと鼻で笑う少女。
 「そんな事を聞いてどうするつもり?冥土の土産にしたいというのも酔狂な話ね」
 「貴様……っ!」
 「まぁ教えてあげてもいいわ。私は西方の国、ガラハより遣わされた者。連合軍の軍師として迎え入れられたのよ」
 それを聞き、ウェルドは小馬鹿にした態度を取る。
 「何かと思えば田舎者ではないか、その分際ででかい口を利くとは」
 ガラハ。
 西方南部にある高原地帯が領土の半分を占める平穏な土地に創られた新興国家。
 放牧や農業が盛んに行われており、商業は中央部に近い一部の都市で賑わっている程度の小さな国だ。
 この国では各地方の領主が集まり、年数回の会談を行う事で国全体の政を決めている。その為正確な軍隊と言えるものを有しておらず、各地方の領に属する兵士がそれぞれの地方を守っている。
 「連合軍では他国家間での兵士に対する指揮系統を簡略化する為に、各国家での爵位・階位を同列のものとして扱う。そうよね?」
 少女はウェルドの後ろ、部屋の入り口に立つ影に問い掛けた。
 影はゆらりと動き少女に微笑みを向ける。
 「ええ、その通りです」
 「飛鳥だと……何故貴様がここにいる?」
 「彼女に呼ばれたのですよ」
 訝しげな眼を向けるウェルドに少女は言う。
 「私は主から軍に置ける最高権力を有する導師の称号を戴いているわ。そしてその階位は一介の将軍よりも遥かに上。……意味が解るわよね?」
 「ぐっ……」
 「ふふ、結構。じゃあ軍師として最初の命令を出すわ。只今を以てウェルド将軍を連合軍の指揮系統から外す事を決定する。異議は認めないわ」
 「なんだと……っ!」
 「貴方の動向は充分聞き及んでいるわ。目前の戦いの策すら練らずに領民から物資を巻き上げ、逆らう者は不敬罪で殺していたとか。随分と大胆な将軍様ね?」
 「言いがかりはよせ!そもそも何の証拠が」
 「見苦しいわね。不敬罪で首を刎ねてもいいのよ?その為に飛鳥がここにいるのだから」
 わなわなと握り締めた拳を震わせ、何も言わぬままにウェルドは部屋を後にした。
 相変わらずの微笑みを浮かべたまま、青年は少女の対面に座る。
 「いやはや、助かりましたよ。私はウェルド将軍と同等の地位。私の権限で彼を抑える事が出来ませんから」
 「相変わらずみたいね、フォウ」
 「名前で呼ばれるのも久し振りですよ」
 フォウと呼ばれた青年は穏やかに笑む。
 「それにしてもガラハを名乗るとは上手く考えましたね。あの国は細かく分かれていて領主会談の場に五十を超える領主達が集まり、誰の地方領に誰が属しているのかすら他国には解りませんからねぇ」
 フォウの言葉には答えず、少女は部屋の入口に向かって硝子玉を飛ばす。
 硝子玉が当たる直前に扉が開き、中に入ろうとした人物に命中する。
 「〜〜っ!」
 「いらっしゃい鷸」
 その人物は何食わぬ顔で迎え入れる少女に、おでこを抑えながら抗議の眼を向ける。
 「何すんのよーまったくもう!」
 以前カルカ運河での戦いでフォウの手助けをしていた少女だ。
 亜麻を好むのか、彼女が身に纏うものは大半が亜麻で作られている。
 文句を言いながら、鷸は少女の隣に腰を下ろす。
 「まぁまぁ、今お茶を入れますから」
 「……相変わらず将軍の地位が似合わないくらい家庭的ねぇ」
 鷸の皮肉を笑顔で受け流し、フォウは会議室奥に設けられた簡易給湯室へと引っ込む。
 すぐに気分を和らげる甘い香草の香りが漂ってくる。
 彼が好む茶葉だ。彼をよく知る者の中には、彼の名前を聞いただけでこの香りを思い出すという者もいる。
 「随分早くこっちに来たのねー。やっぱり愛しのお兄様がいないと寂しいのかしらー?」
 ニヤニヤと茶化すように笑う鷸に鋭い眼を向けて威嚇する少女。
 「煩いわよこの子供体型」
 その言葉に面食らったような表情を浮かべる鷸。
 発育が若干他人より遅いのを気にしているのか、自分の胸を隠すようにしながら怒り出す。
 「なっ……!なによー、このちび!」
 「小さくて悪い?」
 「うわ、この子開き直った」
 途端に騒がしくなる会議室。もっとも、それは子供の喧嘩となんら変わり無いのだが。
 と、フォウが三人分の湯呑を手に戻ってきた。
 「はいはい、喧嘩はしないでください。二人とも子供なんですから。もっと落ち着いて」
 苦笑いを浮かべるフォウに二人はフンと顔をそっぽに向ける。二人にお茶を渡し、自身もお茶を飲みながら椅子に腰かけた。
 「数年振りの再会で最初にする事が喧嘩とは、二人とも変わりませんね」
 呆れを含んだような言い方に、鷸がむっとしながら鋭い視線をぶつける。
 それを笑顔で受け流し、フォウは宥めるように言う。
 「褒めているんですよ。離れていた時間を感じさせない、素直なままの二人を」
 何か反論しようと口を開く二人だったが、お互いに同じ事を言おうとしたのを感じ取り、大人しく湯呑に口を付ける。
 くすくすと笑い声を漏らしながら、フォウは独り言のように問い掛ける。
 「それにしても、戦場に赴くのなら向こう側かと思っていましたが」
 「あ、そういえばそうね。なんでなの?」
 鷸の問いには答えず、涼しい顔でお茶を飲む少女。
 「……答えなさいよちんちくりん」
 「なんですって!」
 鷸がぼそっと呟いたのを聞き逃さず、烈火の如く怒り出す少女。どうやら『ちび』は聞き流せても『ちんちくりん』は我慢ならないらしい。
 鷸は舌を突き出し勝ち誇ったような顔をしている。
 「さっきのお返しよ馬鹿!」
 「鷸の癖に……!」
 再びギャーギャーと騒ぎ出す二人。
 やれやれ、と肩を竦めるフォウ。どうやら仲裁は諦めたらしい。
 「大体なんでこんな頭巾なんか被ってるのよ、脱ぎなさい!」
 顔を覆い隠している頭巾に手を掛けようとにじり寄る鷸。
 「や、ちょっと、やめ……!」
 一瞬の隙を突き、少女の頭巾を外す。
 銀色の髪と深紅の双眸、同姓さえも魅了する程美しい端正な顔が現れる。
 何か面白そうな事になっているのでは、とでも期待していたのか鷸は落胆の溜息を漏らす。
 「なんだ、特に変わった事無いじゃない」
 「いいじゃない、気分の問題よ!」
 多少照れた様子でお茶を飲む少女。
 その姿は先程ウェルドを軽くあしらった人物と同じとは思えない。
 「さて、これからどうします?」
 口火を切ったのはフォウだ。
 どう、というのは連合軍の趨勢だろう。今の連合軍の最高責任者はこの少女なのだ。
 「貴女の決めた事が世界を動かしていく。それはとても甘美で危険な事ですよ」
 そして突き放すように言い放つ。
 「一度も外の世界に出た事の無い箱庭の姫君が、民衆や国を導いて行こうというのです。世界という重りを貴女の双肩で支え切れるかどうか」
 「ちょっと、フォウ……!」
 余りに厳しい物言いに鷸が口を挿むが、フォウは叱責とも取れる言葉を続ける。
 「貴女方竜族からすれば、人族など愚かで醜いものでしょう。しかし、その人族の命運を担うというのならばそれ相応の覚悟が必要となります。貴女に、英雄となる覚悟があるのですか?」
 手にした湯呑を円卓に置き、少女はゆっくり、噛み締めるように答えた。
 「このままなら世界は竜族の支配するものとなる。でも兄さまはそれを望んではいないわ。兄さまが望むのはあくまで人族が世界の覇者となる世界。だとしたら、私が兄さまの対となり人族を導いてこの戦いを上手く演出する必要がある。だから私は導師となったのよ」
 「戦争を上手く操り竜族を滅亡したものとする為に、ですか」
 「その為に私は兄さまに隠れて戦術を学んだわ。同胞の安全を確保し、且つ人族が支配する大地を仕立て上げる、その為に」
 「……それは険しき茨の道。貴女の愛する『彼』とも戦う事になるでしょう」
 饒舌に喋っていた少女がその言葉に動きを止める。
 だが、少女はフォウを見据えて言った。
 「兄さまが戦っているからこそ、私は戦場に身を置かなければならない。私と兄さまは対の存在だから。私は私のやり方で兄さまの夢も人族の平和も守ってみせる」
 暫くフォウは少女の目を見ていたが、それが揺らぐ事がないと解ると目を細めて言った。
 「我等人族の未来、貴女に託しますよ。気高き幻竜の末裔、ノーヴィー・ナタス」
 それだけ言うと、自分の飲んだカップを片付けて部屋を後にする。
 余りに唐突な行動に、残された二人は笑みを溢す。
 気を利かしてくれたのだろう。数年振りに再会した無二の親友と語り合う時間を、フォウは双方に与えた。
 「なんでもお見通しみたい」
 「かもしれないわね」
 「でも……ちょっと不器用なのは相変わらずみたい」
 「全くよね」
 一頻り笑い合った後、鷸は微笑みかける。
 その表情は慈愛に満ち、聖母を思わせる程優しい。
 「久し振りね。最後に会ったのは何年前かしら」
 「もう四年になるよ、鷸」
 先程とはまた違う、少女の声色。
 心を許した者同士気兼ねなく本来の口調に戻す二人。鷸は母性に溢れたゆったりとした話し方を、少女はやや舌っ足らずな甘えた話し方を。
 普段はお互いに何処か距離を置いた物言いをするが、二人きりの時はこうして自分を曝け出している。
 「四年、か。つい此間(こないだ)のように思えるわ」
 思い出を噛み締めるように鷸は呟く。
 少女も同じように、遠い目で思い出を見詰めている。
 だがそれも一瞬の事。子犬のような愛らしい笑顔を鷸に向ける。
 「鷸はちょっぴり大人になったかな」
 「アンタは変わってないわね。旧友との再会で硝子玉ぶつけるくらいだもの」
 「う……あれは、ごめん」
 しゅんと項垂れる少女に、思わず笑ってしまう。
 ころころと万華鏡のように変わる表情を見るのが鷸の楽しみでもあった。
 一拍の間を置いて、鷸は少女に訊ねる。
 「それで、決心はついた?」
 こくん、と少女は頷く。
 「いつか振り向いてもらえるまで、頑張ってみる」
 「そう」
 答えは短いが、その言葉の中に溢れんばかりに詰まった応援の気持ちを、少女は受け取った。
 暫くはお互い無言の時間が続いた。
 小さな吐息を溢し、少女はぽつぽつと話し始めた。
 「最初は向こう側……竜族の軍に行こうとしてたの。兄さまはちょっと困ったような顔をして、それでも私を迎え入れてくれたと思う」
 鷸は言葉を挟まず、続きを話し出すのを待っている。
 「でも、それじゃダメなの。私がしたかったのは兄さまを見上げている事じゃない、兄さまの隣に立っている事なの。私だって、兄さまの為に出来る事はある。そりゃぁ……私みたいな半人前に出来る事なんて高が知れてるけど」
 少女は湯呑の中に視線を落とす。
 ゆらゆらと水面が不安定に揺れている。まるで少女の心を投影しているかのように。
 そんな彼女の背中を、鷸はそっと押してあげた。
 「何が出来るのかは分からなくても、自分が思う事をそのまま形にしていけばいいんじゃない?それが彼を想う気持ちでやった行動なら、きっと彼に届くと私は思うわ」
 鷸には解っていた。
 答えは最初から決まっている。ただ、彼女は少し心細かったのだ。
 いつも彼女は彼と同じ道を選んできた。
 だからこそ、彼に近付く為に敢えて別々の道を選んだ勇気も、彼と離れ離れになる寂しさも、全て鷸には伝わっていた。
 だから、鷸は答えを示さなかった。
 「アンタは思うままに進みなさい。私はすぐ後ろで支えてあげるから」
 「鷸……」
 少女は何か言おうとするのだが、照れくさいのか下を向いてしまう。それを鷸は急かす事もせず、ただ穏やかな笑みを向けている。
 何度かそれが続き、漸く喋る勇気が湧いたのか少し小さめの声で、少女は言葉を紡いだ。
 「ねえ、鷸」
 「ん?」
 「……ありがとう」
 「私はまだ何もしてないってば。これからアンタが頑張るんでしょ?」
 どこまでも穏やかに、優しく包み込むような声。
 お互いに顔を見合わせ、どちらからともなく笑い合った。
 楽しげな空気の中をゆっくりと時間が流れて行く。
 日が暮れるまで、その部屋から談笑が途切れる事は無かった。
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