走っていた。
山林の中をただひたすら駆ける。
いや、駆けるというより何かから逃げている、と言った方が正しいかもしれない。
自慢の獲物を肩に掛け、一秒でも早くその場から離れようと木々の間を駆け抜ける。
(一体何故?私の位置は見えなかった筈……)
何度繰り返したか解らない問いを自分に向けながら、一気に山肌を駆け下りる。途中、下衣の端が枝に引っかかり裂けてしまったが、今はそんな事を気に掛けている暇(いとま)はない。
機は完璧だった。自分自身間違いなく獲ったと思ったが、ここでも予想外の出来事が起きた。
別の竜が標的を突き飛ばした御蔭で弾は命中しなかったのだ。
(一体何故……!)
何度目かの問い掛けをした時、不意に震えているような高い澄んだ音が響いた。
「雹鋼が……鳴いている?」
音。
欠けていた情報の断片が私の頭の中でかちりと嵌った。
標的を突き飛ばしたあの竜は音を聴いたのだ。信じられないが風が鳴る音を聴いてあの竜は私の攻撃を知り、そして標的を守ったのだ。
ぎり、と歯噛みをし己の失態を悔いる。
あの炎竜ではなく、やはりあの竜を狙えば良かった。あの竜が現れるまで身を潜めておけば――、
思考はそこで中断された。
本能が敵の襲来を知らせていた。予想よりも追いつかれるのが早かったが、ここで返り討ちにする。
長銃を構え、銃口を新たな標的が現れるであろう木々の間へと向ける。
一瞬の静寂。
「っ!」
現れた者の姿を見た時、私は引き金を引く事を忘れていた。
滑らかな銀髪、切れ長の紅き双眸、端正な顔立ち。見る者を虜にしてしまうような蠱惑的な雰囲気。
「やはり御前か。しかし引き金を引かないというのはどういう事だ?勇ましき狩人よ」
美しくどこまでも透明な声。私はその声に聞き惚れていた。
「……どうした?呆けた顔をして」
彼の顔が目前まで迫った時、漸く私の頭は回り始めたようだ。
「なっ、あ……っ!」
どうやら舌は回ってくれなかったらしい。思いっきり私は舌を噛み、弾みで愛銃を落としてしまった。
余りの痛さに口元に手をやる。小刻みに肩がぷるぷると震えた。
そんな私を見て、彼は笑い出した。
「くくく……今まで我と出会った人間で御前のような反応をした奴は見た事が無い。竜族を目の前にすれば逃げ惑うか、それとも果敢に向かって来るか、だというのに」
それはもっともだ。
でも私はどちらも出来ないまま、舌の痛みが引くまでずっと彼を見ていた。
痛みが引いたのを見計らって、彼が尋ねる。
「無垢なる少女よ、名は何と言う?」
少女、と言うものだからてっきり私以外に誰かいるのかと思い辺りを見回してみるが、やはり誰もいない。
この長身だから少女と呼ばれなくなって久しいが、永い時を生きている竜族からすれば私も少女になるのだろう。
そう勝手に解釈して答える。
「……クゥガ」
別に敵意があって溜めた訳じゃない。単に人付き合いが苦手だから、こういう話し方なだけ。
「クゥガ、か。いい名前だ」
何故だろう。彼に名前を呼ばれるとくすぐったい。
「我はヴィノ。ヴィノ・ユーノクラインだ」
「ヴィノ……?」
口の中で何度か呟いてみる。……うん、覚えた。
取り敢えず手近な切り株に腰掛ける。勿論、愛銃も一緒だ。彼の事を警戒している訳ではなく、傍にないと落ち着かないのだ。
彼はその事をちゃんと理解してくれたようだ。
「その銃によほど愛着があるらしいな」
「ん」
彼は私の前でしゃがみ込むと、私の左足に手を翳す。先程木の枝に引っ掛けて破けてしまったところだ。見ると、うっすらと血が滲んでいる。
何をするのだろう。疑問に思った瞬間、彼の手が淡く光り始めた。
癒しの光。
魔術を会得する者が最初に覚える術だ。人間の中にも魔術を使う者はいるが、こんなに暖かな光を生み出す術師は今まで見た事がない。
光は直ぐに収まり、傷も綺麗に消えていた。
有難うと言うと彼は優しく笑い、私の隣に腰掛けた。
いつの間にか彼に対する警戒心は無くなっていた。敵同士だというのに、私も彼も戦う意思は持っていなかった。
「何故敵の私にこんな事を……?」
私の問いに彼は呆気に取られたような顔をした。そんなに私の言った事が意外だったのだろうか。
「敵、か。では逆に問おうクゥガ。御前にとっての敵とは何だ?目の前に立ち塞がる者か、それとも全ての竜族か、或いは私怨を抱く仇敵か」
「え……?」
「我には敵等存在しない。便宜上そう呼んでいるだけで、我はいずれの者も敵として認識した事等唯の一度も無い。必要があれば排除し、興味が湧けば近付き、無価値と判断したなら捨て置く。ただそれだけの事だ」
どういう事だろう。彼は敵もいないのに戦っているというのだろうか。
理解出来ていないというのが伝わったのだろう、彼は別の問いを向けた。
「クゥガ、御前は何故我に銃口を向けない?」
「……向ける理由が無いから」
「ならば、我が御前に刃を向けない理由も自ずと見えてくるのではないか?」
そういう事か、と私は理解した。考えるまでもない、単純な答えだった。
その後私は彼に彼が戦っている理由を尋ねてみた。全ての竜族を救う為に陽動として動いている、と聞いて私は彼を凄いと思い、同時に自分の戦っている理由と比べて少し恥ずかしく感じた。
私の心を見抜いたかのように、彼は問う。
「人にはそれぞれの戦う理由がある。それは他人と比べられるものではない。御前の戦う理由が何であれ、それを恥じる事は無い」
彼の瞳が私の理由を聞かせて欲しいと言っているように思えて、私は訥々と話し始めた。
幼い頃に両親を殺された事。両親を殺したのが竜族だった事。そしてその竜族が銀髪であった事。
「……銀髪の竜族はそうそういないから、カルカ運河でヴィノを見た時に、遂に見付けたと思った」
彼は驚くでもなく、静かに話の先を待っている。
その様子から彼が両親の仇では無いと確信が持てた。
「生前、私の父は鍛冶屋を営んでいた。この銃は父が残した唯一の形見だから」
「その銃で仇を討とう、と」
「ん」
頷いた私の頭にぽん、と手が置かれる。
「……くすぐったい」
それには答えず、彼は呟く様に言った。
「銀の髪の竜、か」
その声は少し憂いを帯びていて、私は彼が何かを知っているのでは、と思った。
不意に頭にあった温かさが消えた。彼は立ち上がり、術衣の端を払う。
「さて、長居をしたようだ。早く陣に戻らねば奴に何を言われるか解ったものではない」
「行くの?」
自分でも知らないうちに声が出た。もう少し彼と話していたい、そう思っていた所為かもしれない。
彼は私の方に振り向くと、優しく微笑んだ。
「共に戦場を渡る事は出来ずとも、何度でも我等は巡り合うだろう。その身を戦場に置く限りは、な」
それは一時の別れを告げるものだったけど、また会おうと彼が言ってくれて嬉しかった。
「次の戦場が何処になるかは判らぬが、暇になれば会いに来よう。御前と居ると退屈せずに済みそうだ」
言い終わった時、彼の姿は闇に消えていた。
彼が居なくなって暫くしても、私はその場を動かなかった。
なんだろう。さっきから心臓の音が煩いくらいに響いてくる。すぅと息を吸い込むとひんやりとした空気が肺の中に広がる。
「ヴィノ……」
呟くと顔が熱くなる。慌てて顔をこすったりしてみるが、火照りは治まるどころか更に熱を増してゆく。
「んー、これは間違いなく惚れたねぇ」
「わ、わっ……!」
背後から聞こえた声に驚き、振り向こうとしたところで体勢を崩し、切り株から滑り落ちる。
「いやいや、まさかクーちゃんが彼に嵌るとは太陽神も思わなかったのさ」
ニヤニヤと音が聞こえてこそうないやらしい声に、私は驚きとちょっとの怒りを込めて顔を上げた。
「白姫……!」
「ちっちっち、そんな余所余所しいのじゃなくもっと親しみを込めて呼んで欲しいのさね。ミアちゃん、って」
睨みつけた先、神官の着る術衣に身を纏った女性がニヤニヤと笑っている。茶色の髪と透き通った深い青の瞳が印象的だ。
私よりも背は小さいが、年は私より上だ。
初めて彼女を見た時は子供だと思ったが、彼女もそれを多少は気にしているらしい。
ミアは彼が消えた辺りを見ながら熱い溜息と共に呟いた。
「雨の日も風の日もただひたすら銃を片手に山を歩き回っていた男っ気なんか影も形も無いようなクーちゃんに、遂に、遂に春がやってきたのねっ……!お姉さん嬉しいよっ!」
ひどい言われようだ。
「余りに男の子に興味無いみたいだから私てっきりクーちゃんって女の子が好きなのかもとか思ったりもしたのさ」
ミアはそこで言葉を区切ると、次の瞬間力強く拳を天高く突き上げて大声で言った。
「しかぁぁあっし!クーちゃんは今日という日に遂に狩人の仮面を脱ぎ棄て、恋する乙女へと生まれ変わったのさねっ!」
もう何を言っても無駄に違いない。
そう思った私は立ち上がり陣へと向けて足を進めようとした。が、一歩踏み出したところでミアに呼び止められる。
「クーちゃん、私達が行くのはそっちじゃないさね」
「え?」
「なんでも魔族達が竜族を挟撃する為に向かってるのを竜族が察知したみたいで、もう向こうさんは移動を始めてるさ。多分ガザ平原を越えた辺りで戦闘になるから私達人間も早いとこ動こうってさっき決まったのさ」
ミアは森の反対側を指差す。山頂付近では松明の明かりがちらちらと揺れており、魔族達が必死に退却を始めている。そしてその下、中腹の開けた場所には、
「いない……?」
先程まで居た筈の竜族の姿が、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。いくら寡兵といえども五百を超える軍が影も形も無いというのは腑に落ちない。
予備の遠視鏡を懐から取り出し辺りを見渡す。
山林から視界を外した時、微かに動く影を見付けた。
「もうカルタナを離れた……!」
「多分ココに攻めて来てたのは精鋭部隊さね。残りはリシュメイア辺りに駐屯させてこっちの撤退を支援させるつもりだったのさ」
彼はカルタナに魔族の一軍が待機していた事も、新たな援軍が竜族を挟撃するつもりだった事も、全て承知の上だったとでもいうのだろうか。
「すごい……」
思わず感嘆の声が漏れた。
彼の叡智は人間の考えが及ぶものではない。私達の遥か上を、彼は歩いているのだ。
「なに?惚れ直しちゃった?」
知らずに緩んでいた口元を引き締め、反論しようとミアを睨み付ける。
「反論する前にクーちゃん、もう一回彼の事思い出してみるのさ」
「ん」
言われた通りに彼の姿を思い浮かべる。
呆れを隠す事無くミアは溜息を吐いた。
「その緩みきった顔をどうにかしてから文句言うのさね」
若干の恥ずかしさを感じつつ私は問う。
「白姫、彼の事を知ってるの?」
「知ってるも何も、竜族の中でも取り分け有名さね。銀髪紅眼の道士でその魔力は比肩する者無し、って謳われた世界最強の竜なのさ」
ミアは訳あり顔で私に言った。
「まぁ彼の事について聞きたいならフォウか鷸に尋ねるといいのさ。あの二人は個人的に彼と繋がりがあるらしいからね」
「それにしても白姫」
「ん?」
クゥガは努めて無表情に問い掛けた。
「いつからいたの?」
「……スタコラサッサだぜぃ」
身の危険を感じたのか、ミアは風よりも早く林の中を駆け抜けていった。