幕間――ガザ平原、連合軍前線基地


 ガザ平原は大陸中央部に広がる広大な平原である。
 温暖な気候と肥えた土地を有する住みやすい環境であるこの地方には多くの都市が形成されている。
 都市部から離れた場所に築かれた城塞がある。
 ガザ砦と呼ばれるこの要塞は人族の幾重に渡る戦争を耐え抜いた、正に難攻不落の砦である。
 魔術全般の干渉を阻害する特殊な金属で形成された厚く強固な外壁と迷路のように張り巡らされた通路から成り、三年以上の籠城にも耐え得る豊富な兵糧が備蓄されており有事の際には民を避難させる事も可能な居住区を東西の塔に備える等城塞都市としても申し分無い。
 一般的な砦とは一線を画す大きさから城と言っても差支えは無いのだが、あくまで有事の際の拠点として利用されている為に呼称は砦である。
 そして今、ガザ砦には多くの兵が駐屯している。
 カルタナから前線に部隊を進めリシュメイア攻略を目標とする連合軍が出陣の時を迎えようとしていた。
 砦の最上階に割り当てられた私室でノーヴィーは空を見上げていた。
 昨日までの晴天が嘘のように曇天が空を支配し、大粒の雨が大地に降り注いでいる。
 その陰鬱な景色は彼女の思考にも少なからず影響を与えていた。
 (……戦場に出た私を、兄さまはどう思うのかな……多分、いい気はしないわよね)
 覚悟は決めた筈だった。
 だがヴィノの姿が脳裏を過る度、心のどこかが切なく痛む。それが罪悪感からくるものなのか、今の彼女には見当も付かない。
 物心付いた時から常に二人一緒だった。ヴィノにしてみれば只のかわいい妹だったのかもしれない。しかし彼女にとって彼は、唯一の家族であり、尊敬すべき師であり、何より最愛の恋人であった。
 その兄を自分は裏切っているのではないだろうか?
 彼の役に立ちたい、その一心でここに来た。だがそれさえ、自分の独りよがりなのでは?
 悲観的な考えばかりが頭に浮かぶ。
 何度振り払っても、亡霊のようにそれは付き纏ってきた。
 「私は……」
 呟く声が、答えを求めて部屋を彷徨う。
 (この前と何も変わってない)
 ヴィノを送り出した日の夜も、同じように迷い続けていた。
 自分にも何か出来る事があるのではないだろうか?
 もっと兄の役に立てる場所があるのでは?
 ただ待つ事しか出来ない自分が嫌で、なけなしの勇気を奮い立たせて此処にやってきた。
 自分から行動する事で、待っているだけの自分を変えたくて。
 「兄さま……」
 愛しい兄の姿を思い描く。
 正直なところ竜族や人族の争い等どうでもよかった。
 自分を認めてもらう手段として、丁度それが目の前にあっただけ。
 手間の掛かる妹としてではなく、一人の女性として見て欲しい。対等な存在として、兄の傍にいたい。自分の全てを兄に求められたい。
 自分の欲望が異常である事等解っている。
 人族のように禁忌とはされていないものの、兄弟姉妹の間でそういった感情を抱く竜族は殆ど居ない。
 (それでも、私は兄さまを……)
 その時、耳元で囁くような声が聞こえた。
 ――欲シイカ?
 (また……まただ……)
 闇が誘っている。
 闇の力を手にした時から、声が聞こえ始めた。
 享楽の深淵へと誘う声。
 闇に触れた者全てに聞こえる声。
 それは果てなき欲望を生み出し、声に従ってしまった者は尽きる事のない苦痛と満たされる事のない渇きに苛(さいな)められ続ける。
 堕闇(だあん)
 闇に魅入られた者はそう呼ばれている。
 ノーヴィーにも、闇の声が囁いている。
 普段は聞こえないのだが、今のように心が不安定になった時、闇は囁きかけてくる。
 ――兄ガ、欲シイカ?
 「……っ!」
 思わず部屋を見回す。誰かがこの部屋にいるのかと思わせる程、はっきりとノーヴィーの耳に届いた。
 ――奪エバイイ。望ムモノ、全テ。
 「うるさい、うるさいっ!」
 耳を塞いでも、それは聞こえてくる。
 ――手ニ入レレバイイ。愛スル者ヲ。
 「違う、私は……っ!」
 不意に、声は聞こえなくなった。
 乱れた呼吸を整える。いつの間にか全身にじっとりと嫌な汗をかいていた。
 溜息を吐き壁に凭れ掛かる。
 もう闇は語りかけてこない。それを認識しただけでもすっと心が軽くなったように思える。
 聞こえてくるのは雨が地面を叩く音だけ。
 暫くどこか遠くから響いてくるような雨音に耳を傾けていたが、肌を撫でるような空間の乱れに意識を呼び戻された。
 「これは……転移術?」
 何が、という疑問を抱くと同時、いくつもの箇所で轟音が鳴る。
 「くっ!」
 体を揺さぶられ床に手を付く。
 ズ……ズン、と砦全体が揺れたのを契機に剣戟の音が微かに聞こえてくる。
 (この音は……まさか敵襲?)
 「ちょっと、大変よ!」
 扉を開け鷸が駆け寄ってくる。
 「一体何が起きたの?」
 「竜族が砦のあちこちに突然現れて、物凄い勢いで攻め上がって来てる!複数の箇所で戦闘が始まってるわ!」
 その言葉にノーヴィーは歯を噛み締める。
 先手を取られた。
 リシュメイア攻略を目前に控えての襲撃。しかも強固な城塞を正面から突破するのではなく、転移術を用いて脆い内側から攻撃を仕掛ける。
 迎撃の用意をさせず短時間でこちらの戦力を大きく削り敵陣深くに入り込む戦術。
 (間違いない、兄さまが……!)
 部隊単位の人数を数か所、しかも同時に送り込むだけの魔力を持ちえるヴィノだから出来る戦法だが、その可能性を予想していなかったのは痛い。
 「全部隊に通達して!重歩兵を総動員して通路に一直線に並べ両手に槍を構えて敵に向かって突撃、弓兵・歩兵は遠回りになるけど通路を迂回して敵部隊の背後に回り込み挟撃!術師は重歩兵を突破してきた敵を各個撃破して!」
 冷静且つ迅速に戦術を編み出すノーヴィーに少しばかり感心していたがすぐに鷸は回廊の先へと走って行った。
 すぐさま魔力の奔流を辿ってみるが、どの場所にヴィノが居るのかは解らない。
 「私だって、いつも兄さまの横で軍略を学んでいたもの……守り切ってみせる!」
 決意を新たに廊下へと駆ける。
 階下から響く剣戟の音が少しずつ近付く。
 入り組んだ構造の城塞は攻める方には難解な迷路であっても、守る方には持ってこいだ。
 階段を転がり落ちるように駆け降りる。
 先程の魔力探査で竜族の大まかな位置は解っている。
 ここから一番近い戦場、北西部の回廊に向かって走っていると剣戟に交じって高く透明な音が聞こえてきた。
 風の鳴る音。
 それが雹鋼によるものだと理解した時、通路の奥で孤軍奮闘する女性が見えた。
 人化の術を解いた竜族数人を相手に、両手に構えた短銃で互角以上に渡り合っている。
 壁際には自軍の兵士が項垂れるように凭れかかっており、その全てが既に息絶えていた。
 「猪口才な人間め!」
 女性の横に回り込んだ竜が体の捻りを利用した裏拳を繰り出す。
 迫り来る拳を避け、体勢を崩したところに長い尾が延びる。
 「くぅっ!」
 咄嗟に構えた短銃で受け止めるが衝撃は大きく、女性は後方へ跳ね飛ばされてしまう。
 「っと、大丈夫?」
 それを受け止め、ノーヴィーは女性の顔を覗き込む。
 すると女性は目を見開き動揺した様子で言った。
 「ヴィノ……違う、貴女は誰?」
 「へ?」
 よく知った名前が出てきた事に思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
 呆けていたところにどよめきが聞こえた。
 「道士……?」
 「いや、道士ではない……何者だ!」
 うろたえる竜族の隙を衝き、女性は素早く引き金に手を掛ける。高濃度に圧縮された魔弾が正面にいた竜を強靭な鱗ごと打ち抜き、キィィィ……ンと高い音を奏でる。
 その一撃で闘争本能を呼び戻した竜達はノーヴィーの事を一先ず思案の外に置き、再び攻撃を開始する。
 三方向から迫る竜族の攻撃。
 「障壁、だと?」
 しかしその拳撃は突如出現した魔力の壁によって妨げられる。
 それはノーヴィーによる防御術。自らの魔力そのもので物理的な障壁を形成し、ありとあらゆる衝撃を弾き返す魔術である。
 「今のうちに!」
 言うより早く、女性は駆け出していた。
 目の前の竜族に肉薄すると密着状態で魔弾を打ち出し意識を深く沈める。
 女性が次の標的に短銃を向けたのと同時、ノーヴィーの背後から声が響く。
 「ほう、人族の中にも豪胆な者がいるか」
 咄嗟に身を前方に投げ出した瞬間轟音と共に今まで立っていた足場が砕け散る。態勢を整えながら声の方へ目を向けると、真っ赤な鱗に身を包んだ高齢の竜がこちらを見下ろしていた。
 よく見ると鱗を染めていたのは血だった。恐らくは葬った兵士達の返り血だろう。
 立ち上がり眼前の竜を睨み付ける。
 不意に老竜の姿が揺らぐ。残像を残して移動したのだと解った時には、既に体が宙に浮いていた。
 次の瞬間弾かれるように吹き飛ばされ、壁に背中を強く打ち付ける。
 「――っ!」
 激痛に呼吸が止まる。息を吸い込もうと口を開けるが肺が思うように動いてくれない。
 倒れそうになり前のめりになった処へ拳が飛ぶ。
 鳩尾に入った拳は新鮮な空気を肺に送り込んだが、意識が途切れる程の激痛をもたらす。
 体をくの字に曲げたまま柱に叩きつけられた。
 無意識のうちに障壁で衝撃を和らげてはいたが、ノーヴィーの動きを止めるのに充分過ぎる程の威力は残っていた。
 詠唱無しで治癒術を唱え、なんとか踏み止まる。
 たった数撃喰らっただけだというのに膝の笑いが止まらない。
 果敢に立ち向かっていた女性も短銃を弾かれ蹲っていた。魔力を振り絞り女性を傍らに転移させる。
 「転移術か。しかしその体では動けまい」
 老竜の言う通り、倒れないように立っているのがやっとだった。霧散してしまいそうな意識を無理やり束ねた所為か頭が酷く痛む。
 「これでも……喰らえっ」
 魔力を集め光の矢を紡ぎ出す。ノーヴィーの意思に従い矢は老竜の喉元へ放たれる。
 「かぁっ!」
 老竜は裂帛の気合だけで光の矢を掻き消し、詰まらなそうにフンと鼻を鳴らす。
 続けざまに光弾を放つが悉く弾かれた。
 再び魔力を充填しようとするが、肺から熱い蒸気のような空気が上がり咽てしまう。
 「げほっ……」
 咳き込むと胃から何かが込み上がってきた。躊躇う間もなく吐き出されたのは血の塊だった。
 内臓が悲鳴を上げている。軋むような痛みに耐え切れず膝を折った。
 逃げられない。
 一秒にも十分にも感じられる時間が過ぎる。
 ゆっくりと迫る老竜の姿を見上げた時、視界は真っ赤に染まっていた。
 「ウガ……ァァ……!」
 苦悶の声を発しながら老竜の肉体が崩れ落ちる。細かな肉片となって生の脈動を終えた物体の横で、男が立っていた。
 蒼黒の術衣を纏った剣士。
 まだ何が起きたのか理解出来ないノーヴィーはその男の名を呟くように呼んだ。
 「ラヴィス……?」
 「遅くなった、我が主よ」
 一瞥さえせずにラヴィスは残った三人の竜族へと歩み寄る。竜達は老竜を討ち倒された事に若干怖気付いたようだがすぐさま囲むようにして攻撃を開始する。
 力も速さも申し分無い拳撃が迫り来るが、ラヴィスは体を半身傾けるだけで避ける。
 腰元の鞘から黒く鈍い光を放つ片刃を抜いたと同時、手前の竜の体が斜めに斬り落とされる。
 振り向きながら抜き身の刀身を潜らせ二体目の竜を貫く。肉体を切り裂いた刃の先から血が滴り落ちる。
 刀を引き抜くと鮮血が勢いよく飛び散り、術衣を赤く染める。
 驚愕にその顔を歪めたまま竜の体は床に崩れ落ちる。
 最後の一人となった竜に向き直るラヴィス。
 「な……何者だ、コイツ……」
 完全に気圧された竜はじりじりと後ずさる。
 ノーヴィーの目の前まで下がった時、竜の体は真っ二つに裂けた。その裂け目から覗く紅き瞳。
 噴き出す血液が顔を汚しても介せず、その眼に魅入っていた。
 「同じ……色?」
 闇を知る者だけが纏う色彩を、眼前の剣士は得ていた。
 ラヴィスは刀を鞘に納めると、恭しく跪く。
 「我が主よ。貴女の剣として馳せ参じた」
 「……貴方、本当にあのラヴィス……?」
 「如何にも」
 顔を上げ真っ直ぐに此方を見詰める。
 遠い昔、知り合った頃の彼とは全く似付かぬ程の強い意志が瞳の中にある。
 「古に交わした盟約に従い、我は貴女を唯一の主として魂を捧げる」
 「盟約、ね……ごほっ」
 彼が言う盟約とはかつて交わした血の取引。
 数百年の昔、ノーヴィーが彼と主従の契約を闇の名の元に行った。有事の際に剣として、盾として機能する忠実なる従者とする盟約。
 「早い話が、私に協力してくれる訳ね」
 呼吸を整え、両足に力を入れる。
 「ぐっ……!」
 体を起こそうとすると全身に激痛が走る。
 それでも力を振り絞り、よろよろとふらつく体を叱咤して立ち上がる。
 「まだ敵軍は退却していない……ラヴィス、迎撃に向かって」
 まだ襲撃からそう時間は経っていない。鷸やフォウが善戦しているとしても、このままでは味方に甚大な被害が出る恐れがある。
 たった一人とはいえ圧倒的な強さを誇るラヴィスさえいれば、前線の竜族の勢いを削ぐ事が出来る。
 仕掛ける時期、彼我の戦力差、進攻の速さから見てもこの戦いは後三十分もしないうちに終わるだろう。
 自軍の消耗を最小限に抑える牽制の意味合いを込めた戦い方だからこそ、早期退却を謀るヴィノの戦術には付け入る隙がある。
 「前線でも特に士気の高い部隊から順に潰して。逃げようとする竜族は放って置き、彼等を予定よりも早く撤退させるのよ!」
 頷く事さえしなかったが、ラヴィスは一言「了承」と言い残して消えた。
 治癒術を自分と女性に掛けながら、ノーヴィーはその場に座り込む。
 いくら初陣とはいえこっ酷くやられてしまった。それでも一矢報いる事は出来るだろう。何より、頼もしい味方が増えたのが嬉しい誤算だ。
 そこまで考えた時、笑いが込み上げてきた。
 千年を優に越える時間を経て再会したというのに、何の躊躇いもなくラヴィスを信用していた。
 「兄さまは簡単に他人を信用し過ぎだって言うけど」
 そういう性分なのだから仕方が無い。
 今は逆にそれが役に立った。疑ってかかっていたなら味方の死傷者は増えるばかりだろう。
 先程まで立ちはだかっていた同胞の死体に目をやる。
 これが見知った顔であったなら、今頃は半狂乱になっているところだろう。
 「これが戦争……」
 怯えるでも、泣き出すでもなく、ノーヴィーは笑っていた。
 「兄さまが背負うもの……私も背負ってみせる」

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