「っ……」
 意識を取り戻す。が、目は開かない。
 私は起きる時、自分が見ていた夢を思い出してから目を開く事にしている。目を開くと今まで見ていた夢が霧のように掻き消えてしまうからだ。……勿論、寝起きが悪いというのもある。
 今日は久し振りに幼い頃の夢を見た。
 あの後私は、彼が同じように会合から抜け出して来た事を知り、罰として宮殿の中を連れ回した。
 思い返しても随分と無茶苦茶な事を言っていたが、彼は嫌な顔一つせず私と遊んでくれた。
 父にもらった自慢の宝物を見せ付けたり、こっそりと色々な物を持ち込んで作った秘密の部屋に案内したり、世話役のメイド達が焼きもちを焼くくらい彼と一緒に走り回った。
 その後で彼は、私の知らない間にメイドからもらってきた焼き菓子を広げて、私の為に小さなお茶会を開いてくれた。
 彼が注いでくれたお茶は今まで飲んだ事が無いくらい美味しかった。
 そうしているうちに会合は終わり、私は彼を連れて父のところへ行った。
 父は私がよく懐いている事に感心すると、改めて彼に礼を言った。私も彼に労いの言葉を掛けると、父は廊下に響き渡るくらいの声で笑った。私が他人に感謝した事が余程珍しかったのだろう。
 暮れ方になり、彼は帰ると言った。
 彼を引き留めようと散々駄々をこねる私に父も困り顔だったが、彼は必ずまた会えると約束してくれた。
 その言葉を信じて、漸く私は彼の手を離した。
 心の奥に眠る甘酸っぱい思い出。
 少し幸せな気分に浸り、私は目を開けた。
 「な……何ですの、これは……?」
 目の前の景色に私は愕然とする。
 空も、地面も、目に映る全てが薄暗い灰色に覆われていた。
 私は目が悪く眼前にある物さえ時々ぼやけて見える事があるが、流石にこの状況を目の悪さで片付ける程頭はぼやけていない。
 寝転がったまま手を恐る恐る伸ばしてみるが、手に何かが当たる感触は無い。
 自分が箱か何かに入れられている訳ではないと知り、私は体を起こした。
 立ち上がると、この空間の異質さがよく解る。
 光が無いのだ。
 上も下も右も左も前も後ろも。
 その全てが立体感の無い灰色が埋め尽くしている。
 すぐに平衡感覚がおかしくなり、体が後ろに倒れそうになる。
 が、それは誰かの手によって支えられた。
 「大丈夫か?」
 「ええ、有難う……」
 振り返り声の主を見た途端、全身が凍り付く。
 先程敵対していた竜族だ。それを認識した瞬間、寸前までの記憶が蘇る。
 「い、いやぁ!離して!」
 「暴れるな、転んで怪我をされても困る。それにお前に危害を加えるつもりはない」
 その言葉に私は気の抜けた顔をしてしまう。
 彼は倒れ込まぬよう支えながら私を地面に座らせ、少し離れた場所に腰を下ろす。
 まだ警戒している私に彼は尋ねた。
 「随分と視力が衰えているようだな」
 その言葉に私は少なからず動揺した。
 (何故この竜族が私の眼の事を知っているの?)
 近しい者にさえ秘密にしていた事を一瞬で見抜かれ、混乱と畏怖のようなものを覚える。
 それでも、私は努めて冷静に切り返す。
 「……それが貴方に関係ありまして?」
 「お前にも充分過ぎる程の関係があると思うがな」
 含みのある言い方にどことなく懐かしさのようなものを覚えるが、慌てて自分を叱咤する。
 (敵に心を許す訳には参りませんわ)
 きっ、と睨み付けるような視線を彼に向けると、やれやれと笑いを含んだ溜息を漏らす。
 そのまますっと立ち上がり私の元へ歩み寄ってくる。
 「な、何をするつもりですの?」
 「大人しくしていろ」
 「ちょっと、貴方……!」
 私が文句を言うより早く彼は私の顔に手を翳す。
 何事かと思った矢先、私の耳の上の辺りに激痛が走った。
 「いたたたたたた!や、ちょっと、離しなさい!」
 ゴリ、と何かがずれるような音が鳴る。それと同時に痛みは引き、段々と目の焦点が合ってくる。
 「あ、あら……?」
 「古典的な療法だが、これで少しは改善される」
 彼が手をどける。
 初めはぼんやりとしか映らなかった彼の顔が、少しずつ見えてきた。
 その姿がくっきり見えるようになった瞬間、私は雷が落ちたような衝撃を受けた。
 銀色に輝く髪。
 深紅を灯す瞳。
 記憶に掛かっていた靄が、ゆっくりと晴れていく。
 「あ、貴方……もしかして……」
 頭の中であの時の記憶が鮮明に蘇る。
 私は呟くように、彼の名前を呼んだ。
 「ヴィ……ノ……?」
 「漸く思い出したか、魔皇の娘よ」
 初めて会った時と変わらぬ笑みがそこにあった。
 再会の喜びを言おうとして口を開くが、代わりに出てきたのは詰問のような罵声だった。
 「っ!一体今までどこにいたんですの?毎年毎年私がどのような思いで詰まらない会合に出席していたと思っているのです!大体何で貴方が竜族の軍勢に加担しているのよっ?」
 自分の言葉にやっと気付く。
 彼は竜族側の者として砦に攻めてきていたのだ。
 そんな私を宥めるように手で制しながら、彼は私の問いに一つ一つ律儀に答える。
 「まず一つ目。あの後は竜族の首都シーナリアスでのんびりと古代魔術の研究に勤しんでいた。二つ目。別れの時我は同じ頃に来るとは言っていなかった。三つ目。我は竜族だ。それ故竜族の軍勢の属していても不思議ではあるまい」
 最後の言葉以外は耳に入らなかった。
 その言葉さえ、私はとても信じられないものだった。
 「貴方が竜族ですって?」
 「ああ」
 私は彼の首根っこを捕まえて前後に激しく振りたくりながら更に質問を重ねる。
 「一体どういう事ですのっ?私はそのような話は一切聞いておりませんわ!」
 「お前に会った時期は丁度魔族の中でも人族と共に竜族を倒すべしという風潮が広まっていてな。そのような公爵共の間を竜族だと言いながら歩いてみろ、ルミナスの奴にも望ましくない事が起こる」
 「だとしてもっ!どうして私に本当の事を教えなかったんですの?御蔭で国中を無駄に捜索してしまいましたのよっ!」
 「好奇心旺盛なお嬢様に言えばすぐ国中の話題になるがな」
 「何ですって!」
 更に強く揺さぶろうとしたところで、左手に何やらぬるっとした感触が残る。
 手を離してみると、掌が真っ赤に染まっていた。
 ぎょっとして彼に目を向ける。
 「ヴィノ、貴方怪我を!」
 「あぁ、掠っただけだ。気にするな」
 見れば全身傷だらけだ。深そうな傷は見当たらないが傷口が多いだけに出血量も半端ではなく、彼の術衣はすっかり赤黒く変色してしまっていた。
 「すぐに治癒術を掛けますわ」
 指先に魔力を集中させる。が、いつまで経っても指先に光が宿らない。
 術が発動しない事に焦りながら何度もやってみるが、結果は同じだった。
 「おかしいですわね……?」
 「無駄だ。この空間には消術のような効果が働いている」
 消術とは魔術を打ち消す為の術。
 それが働いているという事はつまり。
 「では、ここでは魔術を使えませんの?」
 「そういう事だ」
 彼はそう言って腰を下ろす。裂けた術衣の隙間から覗く傷口が痛々しい。
 私は彼の衣服を肌蹴させ傷口を確認すると、自分の法衣の裾を勢いよく引き千切った。それを見た彼は驚いたように口を開く。
 「何をしている?」
 「動かないで。ほんの応急手当くらいしか出来ないですけど、気休めくらいにはなりますわ」
 鳩尾の横にばっくりと裂けた傷がある。そこから、今も少しずつ血が流れ出ていた。
 ぎこちない手付きで包帯代わりの布を巻いていく。
 きつく縛ると彼の顔が僅かに歪んだ。
 「もう少し、我慢してください」
 二回、三回と布を回し最後に両端を縛る。
 これで出血はだいぶ治まるだろう。
 「さぁ、出来ましたわ」
 少し不格好だが上出来だ。
 得意げに彼の顔を見上げて、自分が彼に密着していた事にやっと気付く。
 目の前にある彼の顔。
 「べ、別に放っておいても良かったのですけど」
 しどろもどろになりながら、彼から身を離す。
 すると彼はクククと喉を鳴らす彼特有の笑い声をあげて私を見た。
 「昔と変わらぬな。一生懸命なところも、優しいところも」
 「なっ、なっ……」
 顔が熱くなる。私はそっぽを向きながら彼の前に座り込んだ。多分顔は真っ赤になっていると思う。
 火照りを冷ます風を起こそうと指先に魔力を集中させる。が、魔術が使えない事を思い出し手で顔をぱたぱたと扇ぐ。
 「不便ですわね……」
 「何がだ?」
 「何でもありませんわっ」
 ちらりと彼を見る。全身に出来た傷を見る度、後悔のようなものが胸をちくちくと刺す。
 居た堪れなくなり、私は彼から視線を逸らした。
 「その……大丈夫ですの?」
 「問題ない。こうして手当てもされたからな」
 彼は優しく微笑む。
 その笑みに少し元気を分けてもらった気がした。
 「そう言えば……この空間は何ですの?」
 改めて周囲を見回す。
 光も影も無い果てしなく続く灰色が広がっている。
 辛うじて平衡感覚を保っているものの、脳に直接襲い来る違和感と吐き気は治まりそうもない。
 「虚空、と言うべきか」
 「何ですって?」
 「お前の法杖に飾り付けられていた白い宝玉。あれは恐らく虚空石だ」
 その石の名前には聞き覚えがあった。
 所持者に対する一切の魔術を無効化してしまう性質を持つ、古代の失われた術具だ。
 今では存在自体が半ば伝説と化した、所謂『空想の産物』として伝わっている。
 「私の法杖に虚空石が?でもどうしてそんな物が……いえ、今はその事は置いておくとして……貴方は、この空間はその虚空石によって形成されたと、そう言いたいんですの?」
 「理解が早いな」
 どういう事だろう、と私は頭を捻る。
 彼はこの空間を虚空と言い、その虚空は法杖に付いていた虚空石が作り出したと推定した。
 「そうなった経緯はこの際無視するとして、ここから出る方法はありますの?」
 若干の期待を込めて彼を見上げると、彼は意地悪くニヤリと微笑む。
 「さてな」
 「さてなって貴方この状況を解っているんですのっ!一応仮にも『私のヴィノ』ならどうしたらいいかくらい考えなさいよっ!」
 首元を掴み前後に勢いよくぶんぶんと振りたくる。
 何となく勢いに任せてとても恥ずかしい事を言った気がする。気にすると余計恥ずかしくなりそうなので無視する事にした。が、彼はしっかり聞いていたようだ。
 「無茶を言うな。我とて虚空石の干渉した空間に閉じ込められる経験等ある筈も無い。それといつから我はお前のものになった?」
 「それは、その……あ、揚げ足なんか取ってないでさっさとここから出る方法を考えなさい!」
 再び顔を真っ赤に染めつつ、弾かれるように手を離し彼に背を向ける。
 だが彼の姿が視界から消えた途端、世界がぐらりと揺れ強烈な目眩と嘔吐感が私を襲う。
 「うぅ……っ」
 耐え切れず崩れ落ちそうになる体を後ろから彼が支えてくれた。
 「無理をするな。この空間は全ての感覚を激しく歪める。常人では耐えられるものではない」
 そう言うと彼は自分の術衣を私に羽織らせる。
 所々に血が付着していたが、不思議とその感覚は嫌ではなかった。
 「え……?」
 突然、私の景色は一変した。
 彼の術衣を纏った途端に脳の違和感が消え、正常な平衡感覚が蘇ってくる。
 驚いて彼に向き直る。彼は優しく微笑んでいた。
 「暫くこれを着ているといい。気休め程度にはなるだろう」
 「ちょ、ちょっとヴィノ、何ですのこの術衣は?さっきまでの変な感覚が消えて……」
 「その術衣には不干渉の術を掛けてある。纏った者に対する外部からの干渉を多少和らげるものだ」
 彼はそのまま立ち上がろうとするが、体が僅かに揺らぐ。一瞬眉を顰めるがすぐに態勢を立て直し、両手を前に突き出した。
 私の皮膚が粟立つ程の強い魔力が、彼の両手から溢れ出す。紡ぎ出した先から魔力は霧散していくが、それを上回る速さで彼は魔力を束ねる。
 「何をしているのヴィノっ!そんな勢いで魔力を消費しては……っ!」
 叫ぶように喋る私に彼は涼しげな顔で答える。
 「やはり虚空石が作り出した空間には霧散出来る魔力の量に限界があるようだな。ならばその限界値を超える魔力を一気に爆ぜさせる事が出来れば、この空間は消滅し元の場所に戻る事も出来よう」
 「いくらなんでも無茶ですわ!馬鹿な真似は止めなさい!ヴィノっ!」
 私の制止を聞かずに彼は魔力を注ぎ込む。
 徐々に光球が大きくなっていき、やがて拳程にまで膨らむ。
 「痛っ……っ!」
 私の全身に刺すような痛みが広がる。
 彼の術衣が和らげてくれているが、それでも私の体に影響を及ぼす程の魔力が空間を切り刻んでいる。術衣が無ければ全身に切り傷くらいは出来ているだろう。
 ビリビリと振動する魔力に、この空間が悲鳴を上げ始めた。少しずつ空間が不安定になっていく。
 「もう少しだけ我慢していろ」
 彼は飄々とした笑みを浮かべているが、その声から余裕は消えていた。
 光球は更に大きさを増し、彼の上半身を包み込む程に巨大になった。
 (これ程の魔力をヴィノは持っているの……!)
 「目を瞑れ、エリーゼ!」
 「っ!」
 鋭く放たれた言葉に身を竦める。
 すぐさま私はぎゅっと目を固く瞑り、縮こまるように体を抱く。
 「爆ぜろ!」
 彼の声に呼応して魔力が爆発したのが解る。
 目を閉じていても眩しいくらいに閃光が走る。
 瞬間、全ての感覚が消えた。


 目を開ける。
 そこは異質な空間ではなく、長い回廊だった。
 「どうやら戻ってきたようだな」
 足元でカランと乾いた音が鳴る。
 視線を落とすと元凶の法杖が揺れていた。先端に付いていた白い宝玉は割れている。
 触れていないのに揺れる法杖に、微かな違和感を覚える。
 「これは……あの空間の中では時間が止まっていたという事か?」
 耳に届く剣戟の音も飛ばされる寸前に聞いたものと周期は変わっていない。
 「……うぅ……ん……」
 背後からか細い声が聞こえた。
 倒れていた少女を抱き起こす。軽く揺さ振ってやると少女はうっすらと目を開けた。
 「……ヴィノ……?」
 「怪我は無いようだな。立てるか?」
 「え、ええ……大丈夫」
 まだ意識が覚醒してないのか、ふらふらと揺れるように立ち上がる。
 「どうやら出られたようですわね」
 「そうらしいな」
 「……まだ体が痺れているようですわ。あれだけの魔力を浴びたのは初めて……」
 そこまで言って少女は顔を上げ、矢継ぎ早に食ってかかる。
 「なんであんな無茶をしたんですの?あれだけの魔力を一気に消費しては貴方の命に係わるんですのよ!」
 怒りともつかぬ感情を浮かべる少女。それがヴィノを心配しているが故と解ると、彼は軽く息を吐いた。
 「あの程度の魔力であれば特に問題も無い。……我はお前の方が気掛かりだがな」
 「えっ……?わ、私は大丈夫ですわ」
 もじもじと俯く少女。照れ隠しなのか腕を組んで指先で袖口を弄っている。
 指が術衣に触れ、少女は思い出したように顔を上げた。
 「あぁヴィノ、少し待っていてくださる?」
 少女は魔力が霧散していかない事を確認し、指先に光を作り出す。
 その光を羽織っている術衣に向ける。
 柔らかな光に包まれた術衣は少しずつ破れた個所が塞がっていき、元の完全な姿へと修復された。
 その様子を見て彼は感嘆の息を漏らす。
 不干渉の術が掛けられた物を修復するには少しばかりこつが要る。時にはヴィノでさえ失敗する事もあるのだが、少女はいとも容易く直している。
 元通りになった術衣を畳むと、少女は彼にそれを差し出す。
 「この術衣はお返ししますわ」
 受取ろうと伸ばした手を、ヴィノは引っ込める。
 怪訝な表情をする少女に彼は笑い掛けた。
 「それはお前にやろう」
 「えっ?」
 戸惑う少女に構わず、彼は意識を集中させる。
 戦場に流れる魔力の奔流を捉える事で大体の戦況を読み取る事が出来る。確実ではないが戦場を見通す事が出来ない時に、手早く全体の様子を窺う事が可能だ。
 その中で、明らかに異質な反応を示すものがあった。
 「これは……」
 砦の北西部側、突如として同胞の気配が消え去った。
 一瞬で四つ。
 残っている気配は二つあるがそのどちらも弱々しく、同胞を葬り去るだけの力があったとは考えにくい。
 間を置かずに、そこから程近い場所で二つの気配が消えた。無論、同胞のものだ。
 術師や弓兵のような離れた場所から相手を狙える者の仕業かとも思ったが、それも違うようだ。
 周辺に術師のような強い魔力を持った者もおらず弓兵が狙う事の出来ない位置関係にある反応が、ほぼ同時に消えたのだ。
 (気配無き奪命者だとでも言うのか)
 偶々人族の攻撃を受けた同胞がほぼ同時に倒れたと考える事も出来る。
 しかし、ヴィノはその考えを否定した。
 戦場に居る者としての勘が、彼に何かを伝えようとしていた。
 「ちょっとヴィノ、聞いていますの?」
 耳に響く声に、彼の意識は眼前に呼び戻された。
 少女は怪訝そうな顔を向けていた。
 「大丈夫ですの?心ここに在らず、と言った感じですけれど」
 「あぁ、少し気を抜いていたようだ」
 心配した様子で少女は目を伏せた。
 「やはり傷口が痛みますの?」
 その眼は彼の胸元に巻かれた布を見ていた。
 僅かに血が滲み、赤黒い染みが出来始めている。
 「痛みは引いている。問題はない」
 勿論、嘘だ。
 傷口は今も鋭い痛みを発しており、多大な魔力を消費した事による疲労と鈍痛が全身を苛み続けている。
 少女は彼の眼を暫く見詰めていたが、軽い溜息と共に呆れたような呟きを漏らした。
 「相変わらず嘘は苦手のようですわね」
 どこか憂いを秘めた笑みを浮かべる少女。
 「違うな。……お前が聡過ぎる」
 やれやれと肩を竦めながら、彼は袖口に潜めた転移石を握り締める。
 魔力を注がれた転移石は淡い光を放つ。
 何らかの理由でこちらの被害が大きくなりそうな場合等に撤退を指示する為の合図だ。
 全軍にこの合図が伝わったであろう事を確認すると、彼は口を開いた。
 「どうやら人族も態勢を立て直したらしい。我等はこの辺りで退くとしよう」
 「あ、ヴィノ……」
 何かを言い掛けて口を噤む少女。
 「どうした?」
 「……また会えて嬉しかったですわ。それに、ちゃんと私の名前も覚えておいてくれましたし」
 穏やかな笑みを浮かべる少女に、ヴィノは背を向けると意地悪そうに嘯く。
 「もう忘れたさ、エリーゼ」
 後ろでクスッと笑う少女。
 両目を閉じ魔力を全身に行き渡らせる。少しずつゆっくりと意識が紡がれていく。
 脳裏に浮かぶ景色は、針葉樹に囲まれた平原では無くリシュメイアの拠点内部。
 恐らく先に退却を始めた同胞達も到着している筈だ。
 普段なら瞬時に可能な転移術でさえ、今の状態では精神集中しないと発動出来ない。
 月の見えない夜の中で絹糸を手繰るように魔力を束ねていく。
 宙に体が浮く感覚。
 一瞬で世界は切り替わり、目的の場所へとその身を移す。ヴィノの天幕内部だ。
 ふぅ、と肩で息を吐く。
 どうやら予想以上に力を消耗しているらしい。
 視界は霞が掛かったように僅かにぼやけ、両肩に鉛でも乗っているかのような疲労感がある。
 「遅いお帰りだな、道士ユーノクライン」
 転移の際に生じた魔力の流れを感じ取ったのか、天幕の外で声が聞こえる。
 声の主を彼は知っている。
 恐らく身を案じて態々天幕まで来てくれたのだろう。
 「あぁ、たった今な。……それとその他人行儀な呼び方はよせ、尊敬や謙遜という言葉には縁遠いお前にそう呼ばれると気味が悪い」
 こちらの軽口に笑みを漏らす気配。
 天幕の外へ出ようと足を踏み出す。それと同時に視界が揺れる。
 支えを失った体はそのまま床に倒れ込む。
 (動かんか。あれしきの空間を破ってこの体たらくとは……我ながら情けない)
 傷口を癒す魔力さえ結えず、赤黒い染みが床を染め上げていく。
 「……ヴィノ?」
 異変を感じ取った声の主が天幕の中へ入る。
 血だまりの中心で倒れている彼の姿に一瞬息を飲む。
 「これは……!いや、まずは治療だ、誰か、衛生兵を呼んでくれ!」


第四幕へ

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